西尾維新の作品は、この作品の他には、所謂「戯言シリーズ」しか読んだことがないのだが、戯言シリーズの感想は、一般的に言われているように、最初の2作「クビキリサイクル」と「クビシメロマンチスト」が素晴らしく、3作目以降は、なかなか楽しみ方が難しい、というか、いーちゃんの過去も語られないし、世界の終わりと言っても終わるわけがない、という状況で何も起こらないまま物語が終わるというのをどう解釈したらいいのか分からないという感じ。要するにエピローグなんだよね。重要なイベントは語られる前に既に終わっていて、その後をどう生きるか、という話。そして、その重要なイベントは小説内で語られることはない。ある意味、非常にシニカルな感じはするよね。本当に凄いこと、語られるべきことは、小説では描写できないという風に西尾維新は考えているのかもしれない。いや、小説だけじゃなくて、物語として表現できない、と考えているのかもしれない。語らないことで表現するしかないというのは、やっぱりシニカルだよね。
どうしてこんな話をしたかというと、エピローグ体質はこの小説も同じなんだよね。主人公の阿良々木くんは、高校2年生から3年生に移る春休みに、吸血鬼に襲われるという大変な体験をした。どうやら、そのときに阿良々木くんも吸血鬼になって忍野というおっさんに助けられたらしいのだが、そのエピソードは小説中では語られない。事件が終わり、阿良々木くんもほぼ普通の体質に戻ったところから小説は始まる。
これはどう捉えるべきなんだろう。戯言シリーズでは、上記のとおり、本当に重要なことは語ることができないという作者の態度が伺えたのだけど、この作品では、ストーリーの空洞化というか、悪く言うと2次創作的な作者のノリを感じる。重要なのは、ストーリーそのものではなく、表層的な掛け合いやキャラクターだということなんだろうね。
そういう作品は、西尾維新に限らず、たくさんあるわけだけど、西尾維新作品がそれらと違うのは、そういう要素を過剰にすることによって、アイロニーを出しているんだよね。ストーリーの空洞化と言っても、浅く語るのではなく、全く隠蔽してしまう。キャラクター重視と言っても、過剰に類型的にして、突き抜けてしまう。そしてあの少しまどろっこしい文体。そういうのが重なって、表層的にも楽しめるし、このエントリーのように、なぜ、西尾維新はあえてそうしているのか、と深読みすることもできる。そういうところが、西尾維新を凡百のライトノベル作家とは一線を画くしているところだと思う。
ただ、やっぱり、クビシメロマンチストで感じた凄みと比べると、この作品は、戯言シリーズ後半と同じく、パターンの中に安住しているなという印象もある。初期西尾作品にあったグロテスクさが、この作品では単なる萌え属性として消化されてしまっているんだよね。作者にとっては、そういう息抜きの作品なのかもしれないが。
まあ、とにかく、西尾維新は何か新しいことをやってくれそうな作家ではある。あまり期待しすぎることがないように期待して、ぼちぼち読んでいきたい。
あと、戦場ケ原さんはツンデレじゃなくて素直クールだと思う。
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